南正康先生(日本医科大学名誉教授) 講演 今日はサリン被曝者の方が大勢いらして被曝者の方は具合が悪い方もいるのに、このお話しを真剣に聞いておられるので申し訳なく思います。 一つや二つでは有りません。採尿は3月20日の初日は2時間おき、21、22日の2日間は6時間おき、23日以降は12時間おきに行いました。図1(A).でFはフッ素を表していますが、これのピークが、多数出ています。どれがサリンに依るのでしょう。サリンの血中の生物学的半減期は30分に満たないので、このフッ素の始めの約14時間(第1日目)を仮にサリンから代謝されたフッ素とした場合、これとサリンによって阻害を受ける赤血球アセチルコリン・エステラーゼ(AChE)活性低下と平行しているかどうかを観ると良いのです。サリンからフッ素が外れると同時にサリンは酵素のAChEの活性部位に付くので酵素活性は低下します。フッ素の量はサリンが被曝者の赤血球の酵素AChEを阻害した度合いと平行していれば、このフッ素はサリン由来と云えます。図2(A)に示したようにフッ素の量が多いと被曝者のAChE活性も低下しています。始めのピークのフッ素はサリンに由来するのでしょう。 毒物へ被曝された時、このように毒物の量と生体の反応関係(量―反応関係)を示しておくのが大切です。ところでサリンのもう一つの代謝物であるイソプロピルメチルホスホン酸(IMPA)を考えましょう。これはフッ素と同じくサリンから出来てくるのですがサリンが生体に入った時、フッ素がはずれてIMPAと成るのですが、この場合は、フッ素の分離と酵素の阻害が同時に起こらずにサリンから分かれたIMPAがフリーで生体内に出て来る場合があります。この場合はIMPAは何の生理作用もしないでそのまま体外に出てきます。すなわち尿に排出されます。被曝したサリンの総量をSとして、そのうちのフッ素をはずして酵素AChEに付着した分画をf、フッ素をはずしても酵素には付かないサリンの分画をjとすると、S = f +j が成り立ちます。jはIMPAに相当します。またS に対してjが多ければ多いほどAChEを阻害した後、出てくるフッ素は少なめになります。すなわちjが多いとAChE阻害は相対的に小さくなります。これも図1(B)のピークの始めの高いピークをサリン由来としてAChE活性の様子をIMPA の第一のピークの被曝量と対応させた図を描くとIMPA の多い方がAChEの阻害が小さいのでAChE活性はIMPA量と平行して大きいのです(図2.(B))。これで、ここに示した仮説が正しい事が解かります。酵素に付かないサリン代謝物のIMPAはAChEの活性も阻害しないということです。何れにせよ被爆されたサリンの作用は明らかです。次に図1(C)についてのべましょう。サリンはフッ素を外して AChEに付着していますが、この付着したものはサリンのイソプロピルアルコール(IPA)残基が外れてAChEに付着しています。すなわち酵素のAChEからサリン代謝物が外れる時はメチルホスホン酸(MPA)という形で外れて来ます。図1(C)に MPA の様子を示しました。MPAは酵素に付いてからはずれるので、MPAのピークはフッ素やIMPAのピークに遅れて出てきます。この図を見て気が付くのは重症者の方(図 1.(C)の上の2人)より、下の軽症者の方(図.(C)の下の2人)がMPA排出量が多く、約200〜300倍も多いことです。また、サリンの致死量は4.3〜5.7マイクロモル/人といわれています。この方達はそれよりはるかに多い0.3 〜90.4 ミリモル/人のMPAを排出しています。このMPA 全てがサリンに由来するとしたら致死量の数百倍の量のサリンに被曝した事になり、サリンのみの被曝とは考え難いのです。ここで先に述べた重症者より軽症者の方がMPA 排出量が多い事も含めてサリン以外の有機リン化合物にも被曝されたことを考えたいと思います。 サリンをはじめ有機リン製剤はAChEなどのセリン残基の付いた消化酵素などを含むエステラーゼ(加水分解酵素)も阻害します。従って被曝に依る症状は多彩です。
科学捜査研究所の人がサリンの含まれている袋の中身にどんな有機リン剤が含まれているかを調べたデータを図3.に示しておきましょう。 これについては印刷された英文の本になっています。これ等の物質の細かい代謝や生物学的半減期などは、この図3.にも示されているエチルサリン、DFPを除いては不明です。 DEMP と DIMPはエチルサリンやサリンの合成時に副生成物として出来てくると我々が考えた物質です。科捜研のデータ(図3.)にもエチルサリンとDIMPが載っています。この図3.と図4.からサリン以外でもフッ素やIMPA やMPAが生じる事が解かります。これ等の有機リン化合物も最終的にMPAに代謝されます。 以上、サリン以外の有機リン化合物へも東京サリン事件での被曝者は、被曝されたと言う事を、お示しいたしました。サリンのみの被曝だと死ぬか生きるかで、生きていれば後遺症はそれ程でないと思われます。しかし中毒情報の無いサリン以外のコンタミナント(混合物、夾雑物)への被曝もあったならば被曝後の被曝者の様子を観察して混合物、夾雑物への被曝にも対応を考えなければならないということです。 以上
結論;有害物に被曝された場合、被曝量を何とか算出して量―反応関係を知る事は大切です。この事件でその様な考えの下に患者さんの症状と毒物被曝量を考察した者は私達だけでした。更に被曝者の後遺症については日医大の大久保教授、井上眼科の若倉院長にお世話になりました。これ等については後の演題で述べられるでしょう。その間に私は被曝者の疲労感と係わりの有る物質を見つけ、その応用を遅ればせながら研究しています。 参考文献;
図1.尿中サリン代謝産物の推移:(A)フッ素(F)、(B)イソプロピルメチルホスホン酸 (IMPA)、(C)メチルホスホン酸 (MPA).] 図2.縦軸は被曝者の赤血球アセチルコリン・エステラーゼ(AChE)の活性を示す。(A)サリンはフッ素が外れて、酵素のAChEに付き、その活性を低下(阻害)させます。(B)サリンからフッ素がはずれてもAChEにくっ付かなければ、IMPA となり尿中に出てきます。IMPA の尿中排出が多いほどAChEへサリンが行っていないので、それだけIMPAに比例してAChEの活性は低下しない事になります。 図3.科学捜査研究所が提出したサリンの袋に入っていたサリン以外の物質 図4.サリン及びコンタミナントの代謝経路
司会の下村氏から:先生、コンタミナントというのは混合物という意味ですね。 ところで私もずっとRSCでサリン被曝者の検診のお手伝いをして来ましたが、被爆者の方の眼の症状、頭痛、疲れ易さなどの訴えは検診開始以来、受診者の20〜30%とずっと高い値を示しています。こんなわけの解からない症状など相手にしても始まらないと言う医師を含む人々もあり、私も途方にくれていました。偶々、私の日本医大定年後に日本医大精神科に大久保善朗教授が赴任されました。彼は画像診断の大家であられ、サリン問題についても何らかの画像診断が出来ないかを、私はリカバリー・サポート・センターの磯貝氏を伴い、被曝者の実情をお話ししてお願いを致しました。この調査の一部は本日、大久保教授の代理の方から示されるでしょう。 じゃあ、お前は何をやっているんだとお叱りを受けるでしょう。確かにこの10数年一度の休みも無く定期に行われるサリン被爆者の検診を私は行なっています。はじめ幾人かいた医師達も検診に時々顔を出す、聖路加の石松医師くらいとなりました。たまたま2009年に私は有る物質を発見し、それが疲労の低減に役立っている事が解かりました。それとメラトニンの代謝物ヒドロキシメラトニンがストレス指標になることも確認しました。こんなとき看護婦さんの労働ストレスの調査の依頼を受けました。この看護婦さんを対照として、とりあえずサリン被爆者女性の尿中のこれ等の物質の排出量を比較しようと現在励んでいます。恐らく有意な所見は出るでしょう。そして大久保教授の結果とある種の対応がつくのも、何れ近い将来でしょう。以上であります。
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